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〜土佐の偉人〜

弘田龍太郎
(作曲家)

弘田龍太郎

安芸市土居生まれ(1892〜1952)

今、安芸市は童謡の里作りに取り組んでいますが、弘田龍太郎の童謡は大正〜昭和にかけて作曲されたものです。
童謡運動を起こし作曲されたメロディーは今も聞く人の心をホッとさせてくれ、心にしみこんできます。

叱られて 、お山のお猿、浜千鳥、雀の学校、靴が鳴る

※占領軍による音楽政策に対し、外国の物まねでない童謡作り
 (北原白秋、山田耕筰)
本山白雲
(彫刻家)

本山白雲

宿毛市生まれ(1871〜1952)

明治維新の功労者の銅像は、明治の精神を後生に伝える一つの方法だという一念で製作。
第二次世界大戦で銅像のほとんどは武器になってしまいましたが、坂本龍馬像と中岡慎太郎像は残されています。
今も、龍馬ファンが龍馬像を見上げ「ホゥーッ…」と見入っている姿を見れば、白雲の一念が確かに後生に伝わっているようです。

坂本龍馬像・・・桂浜
中岡慎太郎像・・・室戸岬
牧野富太郎
(植物学者)

牧野富太郎

高岡郡佐川町生まれ(1862〜1957)

植物分類学は独学。
植物が好きで、花を見ることが楽しみだった「植物の精」は、94年の生涯を植物一筋に終えました。
晩年発見した笹の新種に、夫人の名前スエコより、「スエコ笹」と命名しました。

牧野植物園、牧野富太郎記念館(高知市五台山)



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寺田寅彦
(物理学者、随筆家)

寺田寅彦

東京で生まれ、4才の時高知市大川筋に戻る(1878〜1935)

熊本五高で二人の師に出会った事で、物理学者と随筆家の二筋を歩むことになりました。
寺田寅彦が云った「天災は忘れたころにやってくる」は今、地球環境問題やいずれは起こるといわれている大型地震に対する私達への警句といえます。
もう一つ、「あらゆる災害は、実は人為的なものである」という言葉も残しています。

※田丸卓郎(数学、物理学者)・夏目漱石
田中茂穂
(魚類分類学)

田中茂穂

高知市水道町生まれ(1878〜1974)

「なんでも広く研究することが大切」を持論とし、終生、ひたすら魚の研究に打ち込み、日本の魚類分類学を大成させました。

同級生に寺田寅彦(追手前高校)
吉井源太
(製紙改良技術者)

吉井源太

高知市いの町生まれ(1826〜1908)

明治維新後、土佐和紙は土佐藩の保護がなくなりました。
吉井源太は、

1.発明(大型の漉箕、箕術)
2.生産費軽減(米糊に代り白土を利用し虫害を防ぐ)
3.カジ・コウゾ・ミツマタを混合した新製品

で近代化に成功し、生産を3倍にしました。
土佐和紙は日本の重要な輸出品をなりました。

紙の博物館には、資料、製品、原料、手漉き紙、図書など展示
宇田友四郎
(海運業 土佐セメント)

宇田友四郎

香美郡香我美町生まれ(1860〜1938)

一代にして財閥を築きました。
成功のコツは「事業は人。人の和が第一。」という経営方針でした。







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西山亀七
(企業グループの基礎)

西山亀七

安芸市田野町生まれ(1882〜1968)

小学校入学の日に「これがお前の元手(資本金)や、学校から帰ったら行商してみ・・・」 渡されたお金は15銭。
いろいろあったにしても、自動車、化学工業、貿易と事業を拡大。企業グループの基礎を作り上げました。
中浜万次郎
(ジョン万次郎)

中浜万次郎

土佐清水市生まれ(1827〜1898)

15歳の時カツオ釣りに出て漂流、アメリカの捕鯨船に助けられ、船長のキイット・フィールドによって学校教育を受け、教養と技術(測量・航海)を身につけ土佐に帰りました。
万次郎25歳の時、幕府より前例のない直参旗本で召し出され、通訳として大役を果たしました。(維新後、開成学校の教授)
万次郎は、和服姿にコンパスと三角定規を手に持ち、凛として足摺岬に建っています。万次郎の目には今の日本、今の世界はどう見えているのでしょう。
岩崎弥太郎
(三菱財閥の基、
東洋の海上王)

岩崎弥太郎

安芸市井ノ口生まれ(1834〜1885)

海援隊隊員。明治維新後、三菱商会を創立、海運業を経営。政府の勧告で共同運輸と合併することになります。
合併直前に弥太郎は病死しますが、長男久弥、弟弥之助が弥太郎の遺志を継ぎ三菱財閥を不動のものとしました。

※日本郵船会社
広瀬丹吉
(丹吉針)
(俳人)

広瀬丹吉

高知市生まれの四代目(1852〜1919)

漁獲高は釣り針の良し悪しによると言われています。
丹吉針は元禄から知られていましたが、伝統と工夫により、国内はもちろん海外へ輸出、世界的に名声をあげています。







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島田亀蔵
(亀蔵ヤマモモ)

島田亀蔵
南国市十市生まれ(1807〜1863)

高知県の県花はヤマモモ。
目立たないが梅雨の頃に熟すビロードのような美味な果実。
樹齢200年をこえる原木から接ぎ木をしてヤマモモを移植、繁殖につとめました。
「亀蔵ヤマモモ」はヤマモモの王者といわれ、おいしいヤマモモの代名詞となっています。
中岡慎太郎


中岡慎太郎

安芸郡北川村生まれ(1838〜1867)

中岡慎太郎と坂本龍馬、二人を見ると、中岡慎太郎は自分の理論をもって行動する人のようでした。

29歳の時、京都にて暗殺。
中岡慎太郎   坂本龍馬
      
時勢論 船中八策
 
陸援隊長 海援隊長
 
行動派 談論風発
 
武力倒幕 大政奉還運動
    / 
薩長連合を実現
共に新政府誕生の前夜に
京都で暗殺される
入交太三右衛門
(土佐石灰と
入交産業の基礎)

入交太三右衛門

南国市稲生生まれ(1747〜1805)

郷士(刀)を捨て、裸一貫の商人から入交産業の基礎を築きました。
製法改良の石灰は建築材料、稲作の肥料、土壌改良に効用があると認められ、土佐の基幹産業になりました。








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播磨屋亀蔵
(土佐節の改良者)

播磨屋亀蔵

土佐市宇佐町生まれ(1782〜1853)

大量に釣れるカツオの保存法と紀州の製造法に新工夫を加え、カツオ節の工程に技術改良をして、土佐節の名を全国的にしました。その技術は息子佐之助に受け継がれました。
鹿持雅澄
(幕末の国学者)

鹿持雅澄

高知市福井町生まれ(1791〜1858)

17歳の頃、漢学を中村隆蔵に、国学を宮地仲枝に学びました。わが国最古の「万葉集」を研究し大成しました。
「万葉集古義」は50年もの年月をかけた労作で土佐の万葉学を大成させました。
福井町にある鹿持雅澄の墓に草などよもや生えてはいないでしょうか。
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